浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第一話 浜松の発展は信長の命令から始まる

 皆さん、こんにちは。
 徳川家康公の出世エピソードを「広報はままつ」に連載します。自治体の広報誌での連載は、初めての経験。貴重な古文書を読み解いた成果を浜松市民の皆さん、だけに、お届けしたいと思います。これから一年間、私の『ちょっと家康み』にお付き合いください。

 

磯田道史
《磯田道史 プロフィール》
 岡山市出身
 静岡文化芸術大学 文化政策学部
 国際文化学科 教授
 慶應義塾大学大学院文学研究科修了
 茨城大学准教授を歴任
《著書》
 『武士の家計簿』(新潮社 2003年)
 『日本の叡智』(新潮社 2011年)
 『無私の日本人』(文芸春秋 2012年)
 『歴史の読み解き方』(朝日新聞出版 2013年)

 

 さて、家康公が浜松に城を築いたのは元亀元年(一五七〇)。家康公は、どうして浜松の地を選んだのでしょうか。

 

 家康公は、はじめ今川義元に従っていましたが、一五六〇年の桶狭間の合戦で義元が殺され、今川家が落ち目になると、尾張(愛知県)の織田信長と手を結び、浜松のある遠江地方の領土化を進めました。遠江の国府(県庁)は、磐田の見付にあり、ここに城を築けば、名実ともに遠江の主です。家康公は、見付に居城を築きたいと思いました。

 

 岡崎城は長男の信康に任せ、家康公は、見付城の普請を始めます。屋敷割が進み、この見付城で、乱世をどのように生き抜いていくか、いよいよ未来を展望していた矢先、信長からまさかの‘待った’がかかりました。

 

「もし、信玄と敵対した場合、お主が見付にいたら、天竜川が邪魔になって救援に向かうことができない。たとえ渡ることができたとしても、川を背にすることになる。お主の居城は‘浜松’にしなさい。」と、とんでもない指図が示されました。ここまで進んでいる城普請を途中で切り上げては、負担ばかりが残ってしまう。しかし、そのまま続けては、信長に逆らうことになる。一方の信長は、同盟相手の懐事情など一切考える由はありません。思案の結果、しかたなく、見付をあきらめることとしました。

 

 家康公は、浜松で城普請を始め、浜松の都市づくりが始まりました。信長の身勝手は、浜松に恩恵をもたらしました。そして、江戸時代、幕末を越えて、昭和に入ると、楽器やオートバイなどのモノづくり産業により都市が発展し、人口八〇万人の政令指定都市に成長しています。

 

 今、皆さんがお住いの浜松は、信長の言葉によるものなのです。

 

 後年、家康公は、次のようにこぼしたと「前橋酒井家旧蔵聞書」に記されています。

「信長に属する前に、まずは信玄についておけばよかった。そうすれば、信長も、わしのことを、もう少し大切にしてくれたのに。」

 

 浜松城に居を構えたその日から、一七年間の苦難の日々が始まります。

 

次回予告
未来を見据えた深慮遠謀の戦略家