第三話 いざ出陣!三方ヶ原
元亀三年(一五七二年)、三方ヶ原の戦いの日、浜松では珍しく雪が降っていた可能性が高いのです。徳川家発祥の地・松平郷に残された『松平由緒書』にも「十二月二十二日の事であれば、寒くはあり、雪は深く」とあります。
通説では、武田軍は二万八千人前後、徳川軍は、織田信長からの援軍三千人と合わせて、一万一千人と言われています。しかし、織田の援軍はもっと多かったかもしれません。三千人といえば、わずか八万石の動員兵力です。当時の織田家は畿内まで勢力圏におさめ三~四百万石の力はあり、来援した武将の顔ぶれをみても「援軍三千人」は過小で不自然です。
事実、武田家の軍術書「甲陽軍鑑」には「信長、加勢を九頭までつかまつる」とあります。九頭=二万人前後の援軍が準備されたとする史料は他にもたくさんあります。しかし、この援軍は岡崎・豊橋・白須賀まで広域に分散配備され、浜松城に集結していませんでした。
信長は武田軍との急戦をさける方針でした。「浜松城は出るな。援軍がたどり着くまで野戦はするな。」と厳命していました。家康の家臣たちも決戦には反対で「敵は三万余。しかも、信玄は合戦慣れした侮れぬ武将。対する御味方は八千内外です。」(『三河物語』)と、家康をいさめました。
しかし、家康公には、戦わなければならない事情がありました。自分の裏庭=遠州の領土が武田軍に荒らされています。これに黙っておれば、遠州の人々は、家康のことを「ふがいない三河のよそ者。年貢だけ取って自分たちを守ってくれないダメ領主」と思って見限るかもしれなかったからです。
そこで、家康公は、こぶしを握り締め、意地を通すことにしました。「そんなことは、どうでもよい。戦に多勢無勢はない。天道次第である。」三河武士は忠義者です。家臣たちは家康公に「是非に及ばず(しかたがない)。」と答え、命令に従って命を賭ける覚悟を決めました。武田軍を追撃するため、徳川軍は、雪の中を出陣してゆきました。
この「三方ヶ原の戦い」の情景を、浜松在住の日本一のジオラマ作家・山田卓司先生が作品化されます。私も鎧や旗印などの考証で協力しました。幸い、歴史家を惚れ惚れさせるほどの緻密な名品に仕上がりつつあります。戦いの推移を何点ものジオラマで追っていく大作。とにかくすごい。完成が待ち遠しくて仕方がありません。一月二一日から、浜松市美術館でお披露目される予定です。