浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第四話 家康公、大敗を喫する

 新年、おめでとうございます。今年は家康公の四百回忌。浜松市でも家康公顕彰四百年記念事業が元日からスタートします。私としては「家康公三十歳時のお顏復元」事業が楽しみです。家康公は若い時は目がパッチリした好男子でしたが、長生きして晩年のでっぷりした肖像画か出回ったため、狸親爺のイメージがついて損をしています。特殊メイクの専門家の協力を得て、浜松時代の颯爽とした青年家康の顏が復元されます。私も日本中から家康公の木像や肖像画の写真を懸命に集めて復元を支援しています。完成したあかつきには、ぜひご覧ください。

 

 昨年は、小学生の引間城「一日体験発掘」が実現しました。一般公募で小学生をつのり、浜松城の前身・引間城の発掘体験をしてもらおうという企画でした。私の提案に市文化財課が理解をしめしてくださいました。当時の土器の破片を手にしたときは、感動で心が躍りました。「子どもの浜松を愛する心を発掘したい」という目標は達成できたと思います。

 

 現場からは、凄まじい量の土器が出土しました。三方ヶ原の戦いでは、最低でも一万人がこの城から出陣しています。出陣式では、酒を飲み干し、器を一斉に地面に叩き付けて割ります。そのときの土器なのか。もっと昔の土器なのか。想像がふくらみました。

 

 家康公は、この引間城から三方ヶ原に出陣し、負けて帰ってきます。家康公は、夕闇に紛れながら、一路、浜松城(正確には引間城の元目口)に逃げ帰ることを決断しました。この家康公の逃げ方が、実に面白いのです。

 

 「道々ひたものの唾吐きなされ候」

 

 なんと、逃走中の混乱の中で、家康公は、側にいる護衛の家臣たちの刀に「ぺっぺっ」と、次々に唾を吐きかけたというのです。これには意味がありました。なにしろ夕闇にまぎれての敗走の中です。誰が自分の側をはなれず盾になって忠実に護衛してついてきているのか、顔が見えませんでした。

 

 それで家康公は、側にいるらしい家臣の刀に唾をはきかけ、マーキング(しるしつけ)をしたというのです。後で、家臣の刀をとりよせ、「お前の刀にはおれの唾がついている。ちゃんと、おれの馬脇について護衛していたな。よし恩賞をやろう」と恩賞を与える根拠にしました。「三河之物語」(「三河物語」ではない」)という書物に書かれています。

 

 寒い時期ですから、唾には痰が絡み、よい印になったのかもしれません。家康の人間的凄味は、このように追い詰められたときの並外れた冷静さにあることを覚えておいてください。

 

次回予告
家康公の敗走路