浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第五話 家康公の敗走路

 三方ヶ原合戦で負けた家康公が、どうやって浜松城に逃げ帰ったのか。私は疑問に思い、国立公文書館などで古文書の調査をしてきました。まだ学界で発表できていませんが、家康公の敗走ルートの手がかりが得られたので、浜松の皆さんにだけ、こっそりお教えしましょう。

 

 まず家康公の部将たちの撤退ぶりから見ましょう。一番見事に武田軍の追撃をかわしたのは本多忠勝でした。忠勝は台地上の道を整然と撤退したようです。『武功雑記』に、こうあります。
「(武田軍は)浜松(徳川)勢の撤退に追い込みをかけることにしたが、(浜松)城の後ろの犀ヶ崖に、甲州(武田)勢が知らずに落ちて死ぬ者が出た。その時、本多忠勝は三百騎ばかりで静かに退いた。見事であった。信玄はこれを見て、あれは本多忠勝だろう。忠勝のほかに、あんなふうに撤退する者はいるまい。討ち取るな、と下知した」。「本多系図」には、「犀ヶ崖で味方が危うくなった時、忠勝が下知し、隊列を正して、全軍を元目口から城内に入れた」と書かれています。

 

 鳥居元忠は、台地の麓を退却しました。中沢の交差点から秋葉街道を通り、元浜町付近で武田軍の動きを探っていました。絶対、家康公の元へ帰らねば、と馬を返したところへ、遠矢が飛んできて、鞍を突き破り、足に突き刺さりました。これにより、元忠は生涯、足に障害を持つことになりました。

 

 一方、榊原康政は要領がよく、元忠と同じルートをたどりますが、元浜町の辺りで武田軍に追い越され浜松城に入れなくなりました。康政は、なんと磐田市掛塚まで逃げるのです。元忠は、家康公の元へ引き返す。一方、康政は、更に遠くへ逃げる。退却の混乱状態の中の出来事でした。

 

 さて、家康公の敗走路についてお伝えしましょう。「榊原家伝」にこう書かれています。「権現様は、およそ八千でご一戦あそばされたが、多勢に無勢で勝利を失い、ようよう六、七十騎で退かれた。康政公も討死しようと、敵陣へ遮二無二乗り入れたところ、竹尾平十郎と申す者が『上様は西の山陰を退かれました』といった」。

 

 この山陰は康政が逃げた元浜町付近から見て西側になります。「榊原家伝」から推測すると、家康公は中沢交差点辺りから台地の山陰を通り、引間城の元目口を目指したことになります。家康公は台地の上ではなく、台地の麓を隠れるようにして逃げたのでしょう。中区曳馬に「阿弥陀橋」といって家康が撤退時に通ったとの伝説のある橋の跡がありますが、ほぼ場所が一致します。案外、荒唐無稽な伝説ではないのかもしれません。

 

次回予告
開門!元目口