浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第六話 開門!元目口

 家康公は三方ヶ原の戦いで大敗した時夕闇にまぎれて浜松城へ馬で逃げ帰りました。この時のことを家康公はのちにこう回想したそうです。「わしが三方ヶ原から逃げ帰った時、(お供は)ようよう七人ほどしかいなかった。それも野原の中を走って逃げた」(「寛元聞書」)。途中までは、六、七十人の家臣がいたのですが、次々に脱落して、浜松城に着く頃にはお供は七人だけになっていました。家康公の逃げ足が速かったのと、敵の追撃が厳しかったせいです。

 

 家康公は無事に浜松城の西門に着いたもののなかなか城内に入れませんでした。「鳥居家中興譜」には「(家康公は)三方ヶ原を退き(浜松城の)西の門よりは入られず、遥に大手の門より門外に(馬を)乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口(元目口)より(城内に)入られた」とあります。城の周囲をうろうろし、やっと、たどり着いたのが、現在の市役所元目分庁舎南西(元西税務署)の元城町屋台置場の所=元目口でした。ここから南に向かう切通しの道は今も「古城」の雰囲気を残して、なんとも風情があります。この道こそ「家康公の出陣と生還の舞台」でした。私は、元目口のこの風情は浜松の宝だと思っています。開発で失われないよう祈っています。

 

 家康公は元目口にたどり着いたものの門内に入るのに一苦労しました。「畔柳家記」という史料に、その様子が書かれています。家康の家臣が「開けてくれ。殿のお帰りである!」と叫んだのですが、門番の返答は、なんと、こうでした。「そんな小人数で殿(家康様)が帰ってくるはずがない。(お前ら偽物だろう)」。そういって門番が門内に入れてくれなかったのです。家臣が「いや(本物の)家康様だ」と大声を張り上げ、門番は、家康公の顏を何度も確かめてようやく門を開いたといいます。

 

 しかし、この後の家康公が偉い。門番を叱らず「門を容易に開かなかったのは門番として職務に忠実。立派だ」と、かえって褒美を与えたのです。「竹流し」という銀の延べ棒を与えたそうですから、しまり屋の家康公にしては大サービスです。家康公は「良薬は口に苦し」を肝に銘じ、自分に言いにくいことを言ってくれる家臣を大事にしました。へつらわない「真の家臣」を育て使うのが上手でした。この人づくり人づかいのうまさが、家康公を天下人に押し上げたのです。

 

次回予告
大久保彦左衛門との回想