浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第七話 大久保彦左衛門との回想

 三方ヶ原の合戦のとき、家康公はどんな姿をしていたのでしょうか。一八世紀中頃の「大三河志」には「敵兵公を窺ふ、公の鎧は朱色なり」とあり、朱色の鎧を着ていたとされます。十分にありえる話です。なぜなら家康公の元服儀礼に使われた鎧が静岡浅間神社に残っていますが、それも紅糸で装飾した赤系の鎧です。三方ヶ原の合戦でも赤い鎧を着用していたものと思われます。家康公は、後年、目立たない色の鎧を好みますが、若いころは派手な赤色をした室町時代の形式の古めかしい鎧を着用していたようです。

 

 江戸中期の書物「士談会稿」のなかに、家康公と大久保彦左衛門が三方ヶ原の敗走について具体的に述べた箇所があります。家康公は語ります「信玄は三万ばかり。自軍は一万ほど兵力が不足し、合戦が暮れて小雨が降り出した」「秘蔵の鬼葦毛という馬に乗って逃げた」「中地道にシタシタと浜松に乗り出し、武田に食いつかれ、難儀はしたけれど、本多忠勝が敵味方の中を乗り回し、味方をよくまとめて引き上げた」と。

 

 現在「中地道」の位置は不明ですが、本多忠勝が通ったルートなので、浜松城に連なる台地の上でしょう。「シタシタと」とは「ゆっくり確実に」といった意味で、落ち着いた様を表しています。

 

 家康公は続けて「彦左衛門も達者に走り回ったな」と話しかけました。が、彦左衛門は仏頂面のまま返事もしません。いぶかしげに「やれ、彦左。寝てしまったのか」と聞きました。

 

 ところが、彦左衛門は家康公に反論。「寝たのではありません。殿があまりに大嘘を仰せられるからです。」「家康様の逃げ足は一番早く、元目口に乗り込んだ時には、拙者は、三四町も後方におりました。お逃げになったのは中地道ではないですよね。何が『シタシタと』ですか」と皮肉っぽく言い返しました。

 

 譜代の彦左衛門は、家康公のために命も捨てる忠実な家臣です。でも、家康公が事実と違うことを言えば、きちんと主人に反論しました。家康公は、彦左衛門の言葉に顔を赤らめながら「それほど速かったか。中地道かなと思ったんだが」と笑ってごまかしたそうです。三方ヶ原の敗走は、ぶざまなものでした。天下人となった時、恥ずかしくて「ワシは整然と撤退した」と嘘をついてみたのかもしれません。家康公にはそういう可愛いところがありました。

 

次回予告
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