浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第八話 「空城の計」を検証

 家康公は三方ヶ原から命からがら逃げ帰ってきて、次のような策略を敵の武田軍に仕掛けたとされています。

 

 浜松城に入城すると、赤々と松明を焚くよう指示。城門を開けはなち、静まりかえって、まるで罠が仕掛けてあるかのように見せかけた。そして、家康公は、大の字になってグウグウ寝た。

 

 これが、通説とされている「空城の計」ですが、事実でしょうか。古文書をもとに検証してみたいと思います。

 

 家康公が浜松城に逃げ込んで、まず、行ったのは、敵軍の偵察でした。家臣に「悪いが周りの敵を見てきてくれ。褒美にこれをやるから」と腰の扇子を与えました。それは、もはや使えるものではなかったそうです。三河武士は正直者が多い。「畔柳家記」に「ボロボロの扇子を貰った」と、丁寧に書いてあります。

 

 次に、家康公は浜松城内の混乱を鎮める策を立てました。城内には「殿は大敗。お討ち死に」との噂が広まり、大混乱となっていました。そこで家康公は「自分は城内にいてまだまだ抗戦できる」ことをアピールしました。城内の銃をあつめ「城外に放て」と命じたのです。その銃声を聞き、敗走した家来が少しずつ城に戻ってきました。武田軍も鉄砲に打たれてはかなわぬと、城の向かいの丘まで来て進軍をとめました。

 

 しかし城内の混乱はおさまりません。そこで家康公は一世一代の大嘘をつきました。「どこかに坊主の首はないか」

 

 家臣の一人が坊主頭の首をみつけてきました。すると家康公は「その首を刀に差して、城中を走り回り、『信玄の首をとったぞ』とふれてまいれ」と命令しました。なんと、家康公は信玄の偽首をこしらえたのです。合戦には負けたが、信玄の首はとったと城内の領民にふれて回ったのです。すると「衆心、にわかに定まれり」(「武徳大成記」)。城内の人心はおさまりました。「武徳大成記」は幕府公認の史料。同じ記述は「武功雑記」にもあります。

 

 空城の計は「四戦紀聞」という史料にありますが、これは家康公の知勇をたたえるための後世の創作。徳川軍は静まりかえってなどいません。パンパン鉄砲を打って武田軍を威嚇。味方の敗残兵を城内に収容するため、城門を慎重に開いていたのです。家康公がやった計略は、空城の計ではなく、信玄の偽首づくりでした。(九一八文字)

 

次回予告
信玄が浜松城を攻撃しなかったワケ