浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第九話 信玄が浜松城を攻撃しなかったワケ

 三方ヶ原合戦の時、徳川軍が追撃してくる武田軍を犀ヶ崖に落とした話は本当でしょうか。崖に布の橋を架け、武田軍を転落させたのでしょうか。

 

 どうも、ただの伝説のようです。『遠州古跡図会』(一八〇三年)にも「布橋を懸けたるは虚説なり」とあります。古い史料ですが、合戦から約六〇年後に書かれた「本多中務大輔忠勝譜」には「敵兵があとを追って犀ヶ崖まできて味方の兵が危うく見えた。その時(本多)忠勝は諸卒に下知して列伍を整え、軍を全うして、玄黙口(元目口)より浜松(城)に入った」とだけあります。

 

 しかし、合戦から一〇〇年以上経つと、話に尾ひれがつき、『武功雑記』(一六九六年)では「犀ヶ崖で案内を知らぬ甲州勢のなかに陥死する者がいた。その節、本多中務(忠勝)は三百騎ばかりで静かに退いた。見事であった」と変化します。一八三二年の『改正後三河風土記』になると、武田軍が「犀ヶ崖に落ちて人馬が落ち重なり」大量死した話にまで発展します。おそらく犀ヶ崖の話は伝説でしょう。武田軍の転落死者は多くはなかったと思われます。

 

 では、武田軍は、なぜ浜松城に攻め込まなかったのでしょうか。武田側の史料『甲陽軍鑑』から、その答えが見えてきます。

 

 信玄は、徳川軍を浜松城に追い込んだ後、大将たちを集めて軍議を開きました。「今、浜松城を攻めれば、落城までに早くても二〇日はかかる。その間に、信長が援軍にくるだろう。本坂(浜名湖北)へ五万、今切筋から三万もくるだろう」。そうなると三万足らずの武田軍は信長軍八万に挟み撃ちにされかねない。

 

 三河武士は頑強である。「三〇日は、浜松は落城しないだろう」。信長が援軍に来たら、浜松城の包囲網を解き、大軍を前後に迎え撃たなければならなくなる。長逗留していては危険。軍議では、こういった意見が出て、武田軍は、信長との交戦を恐れて、浜名湖の北へと去っていきました。

 

 これは正しい判断でした。武田軍は戦いを熟知しており、高い戦況分析力で、勝利を重ねていました。それで、無理はしなかったのです。このとき、武田軍は犀ヶ崖から「天林寺ノ山ニ旗ヲ立テ」(「鳥居家中興譜」)占領しました。信玄は犀ヶ崖から下池川町の天林寺あたりの丘に立ち、浜松城を眺めた後、颯爽と引き返して行ったのでしょう。

 

次回予告
信康奪還大作戦