第十話 信康奪還大作戦
三方ヶ原の合戦から十五年ほど前に遡ります。弘治三年(一五五七)、家康公は、今川義元の姪「駿河の御前」と結婚します。駿河の御前(後の築山殿)は「見形よき(『別本当代記』)」、大変な美人だったと伝えられています。
この時、家康公は今川家の人質として駿府に住んでいました。二年後、長男・信康が生まれ、囚われの身ながら、ささやかな幸せを感じているところでした。その翌年、長女・亀姫が誕生するとき、幸せな家族を引き裂く大事件が起こります。桶狭間の戦いです。
今川家当主の義元は、信長の奇襲に遭い、首を刎ねられました。義元は強いと思っていたが、あっという間に死んでしまった。大きな重しがとれた今どうすべきか、家康公は、頭をフル回転させました。まさに、その時、先祖代々の岡崎城から今川の代官が逃亡し、捨て城になっているとの報告を受けました。
「捨て城ならば入ってしまおう」。家康は人質になっていた駿府には帰らず、今川をはなれて、岡崎で独立独歩の動きをはじめました。喜んだのは、家康公の家臣たちです。これで松平(徳川)家を再建できる。このまま今川方についていては、お手伝い戦ばかりさせられてしまう。家臣の中には、今川の血を引く信康が後継ぎになることさえ、よしとしない空気もありました。信長も「今川の勢力が弱まれば、家康は遠州以東の今川領を押領しはじめる。自分との同盟を求めてくる」。そう見ていました。
一方、家康公には、心配の種がありました。正室駿河の御前と長男、長女が未だ駿府で人質になっていたのです。救出を企てたのは、外交担当の家臣・石川数正でした。目をつけた先は、今川と姻戚関係にある鵜殿家(上之郷城主)。まず鵜殿の嫡子を生け捕りにし、今川に信康との人質交換をせまることにしました。家康公は、甲賀の忍びと食事を伴にしながら作戦を立案。見事、生け捕りに成功させ、駿河の御前の父、関口刑部少輔を通じ、今川氏真に人質交換を持ちかけました。この交渉は成功。「築山殿と信康殿を探し出し、潜に三州へ送り賜ひける(『瀬名家略伝』)」。関口刑部少輔の奔走で家康は妻子を岡崎に取り戻しました。石川数正は、若君(信康)を先頭の馬に乗せて、颯爽と帰ってきました。岡崎の人々は「人質を返すなんて氏真は馬鹿だ」と嘲りました(『三河物語』)。
これにより、関口刑部は、今川氏真の怒りを買い、切腹を余儀なくされます。岡崎城下が歓喜する中で、家康公と駿河の御前との溝が次第と広がっていきました。