浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第十一話 乱世の狭間に生きた築山殿

 家康公は、乗馬と水泳にうるさい教育パパでした。戦は常に勝つとは限らない。将軍は大抵のことは家臣にやってもらえますが、逃げるのだけは他人にかわってもらえない。だから乗馬と水泳は必須という考えでした。(『東照宮御実紀附録』)

 

 家康公は判明しているだけで十七人の子どもをもうけています。浜松に居城を移して四年目に、二番目の側室お万の方が次男を産みます。後の結城秀康です。ところが、家康は、この次男の存在を隠しました。正室・築山殿の嫉妬をおそれて隠したとされますが、私はそうは考えません。『武徳編年集成』に「於義丸(秀康)君、出生し給ふと云へとも未(いまだ)信長へ披露なく、今般、尚以(なおもって)御穏便」とあるのに注目しています。つまり、家康はこの子の存在を五年以上も信長に隠し続けたのです。なぜでしょうか。信長に人質にとられるのをおそれて秘匿したとみた方がよさそうです。

 

 家康と正室・築山殿との夫婦関係がこわれたのは織田・徳川の同盟のせいでした。家康公は、三河から東へ領土を拡げたい、信長は西へ侵攻したい。互いに背後の不安を解消したかったので同盟を結びました。築山殿は今川義元の姪ですから、信長の旧敵の一族。この同盟には邪魔者でした。

 

 信康と亀姫は、母・築山殿のことを強く慕っていましたが、家康公は、徳川家の将来を考え、築山殿と離縁したとみられる史料もあります。『別本当代記』です。これによれば、家康公は、子どもたちに分からぬよう、築山殿を鳳来寺へ花見に行かせ、その間に使いを出して離縁したとされます。その後、築山殿はまず伊勢で再婚後、離婚。京の清水寺に身を寄せ、真偽不明ですが、越前の朝倉義景の側室になったとも記されています。程なく、朝倉家は織田軍に滅ぼされ、再び流浪の身となりました。そこで、信康が、母親の窮状を見かね、家康公に引き取らせてほしいと訴え、引き取り先の住まいを、信康の居城、岡崎の築山に建てた。以来、築山殿と呼ばれるようになりました。築山殿は、それまでは「駿河の御前」と呼ばれていました。

 

 ところが、信康と信長の娘の政略結婚がきまると、築山殿は、この結婚に賛成できなかったようで、悶着が起きます。信長から築山殿に謀反の疑いがかけられたのです。「築山殿、武田勝頼をかたらわせられ、陰謀の聞え在りければ(瀬名家略伝)」という話になって、家康公は、信長に嫌疑をかけられた築山殿をかばいきれなくなってきました。

 

次回予告
夫にあてた手紙