浜松徳川武将隊

家康公エピソード

第十二話 夫にあてた手紙

 「私こそが実の妻です。家督を継いでいる三郎の母でもあります。もっとご賞玩(しょうがん)くださってもよろしいではないですか。父の関口刑部少輔(せきぐちぎょうぶのしょうゆう)は、あなたのために命を落としました。その娘である私に情けをかけるどころか、カッコウが鳴くような寂しい場所に追いやりました。床は涙の海となりましたが、唐土(もろこし)の舟も寄らないばかりか、だれ一人として私を気にかけてくれません。執念深いとお思いでしょうが、一念の慈鬼(じき)となり思いを知らせます」。岡崎の築山御殿(つきやまごてん)に隔離された築山殿(つきやまどの)は家康公に恨みの書状を送り、家康公は「いとなやましく思ひ、御書二目と御覧ならず」とその書状を捨てました(『士談会稿(しだんかいこう)』)。

 

 家康公が初めて持った側室は「西郡(にしごおり)の局(つぼね)」でした。西郡の局の祖母は築山殿の母親とは姉妹です。容姿が築山殿と似ていた可能性があります。
家康公は、仲違いになった正室の姿と重ね映しにしていたのかもしれません。心の底では築山殿のことを慕っていたのでしょう。

 

 一方、築山殿は「終に天正五、六年の比より、狂人とならせ賜ひて、種々の悪事をなし、後は武田勝頼(たけだかつより)をかたらはせられ、陰謀の聞へ在ければ(『瀬名家略伝(せなけりゃくでん)』)」と、側室が三男の長丸(ちょうまる)(徳川秀忠(とくがわひでただ))を出産したころ、精神的な疲労が頂点に達しました。そして、信長を陥れるため、武田家と密約を交わしているとの風評が広がりました。

 

 信長は、陰謀の噂を聞きつけ「信康と築山」の処置を家康公に命じました。「詮方(せんかた)なく、岡崎平左衛門(おかざきへいざえもん)・石川太郎左衛門(いしかわたろうざえもん)に命ぜられ、天正七年二月二九日、築山殿を殺害し賜ふ(『瀬名家略伝』)」。ただ、築山殿を斬ったのは別の史料では野中重政(のなかしげまさ)となっています。

 

 築山殿は、殺される寸前に「我が身は女なれども汝らの主なり。三年の月日に思い知らせん(『士談会稿』)」と叫んだという伝説もあります。後日、家来の一人が、築山殿の住まいを調査したところ、武田勝頼の起請文(きしょうもん)が入った道具箱を見つけ出しました。これを家康公に差し出したところ、「火にくべろ」と一言。その後は、何も語らなくなったそうです。家康は築山殿が好きだったと思います。殺害を命じておきながら、築山殿を斬ってきた野中重政に「女だぞ。なんで髪を剃り尼にして追放せず、殺したのだ」と怒り、以後、野中は武士をやめて隠棲(いんせい)したほどです(『野中豊之丞先祖書(のなかとよのじょうせんぞがき)』)。

 

 家康公は平和な世の中になったら、築山殿と再び一緒に暮らしたかったのかもしれません。乱世を生き抜くため、最愛の妻を殺さざるを得なかった。家康公は、静かにその悲しみを受け入れたのでしょう。

 

次回予告
浜松を守り抜いた家康公